浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

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「ある特専部員の除名の真相」を読んで

2009.10.02 (Fri)

 教義に関する不審を会長に問い質した特専部の方が除名になりました。粛清にいたる過程を「さよなら親鸞会」にて読ませていただきましたが、会長には一片の慈悲も、そして「信心決定あれかし」の思いもないようです。

投稿:ある特専部員の除名の真相(前編)
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2009/09/post-8e16.html

投稿:ある特専部員の除名の真相(後編)
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2009/09/post-a65a.html

一 仰せに、身をすてておのおのと同座するをば、聖人(親鸞)の仰せにも、四海の信心の人はみな兄弟と仰せられたれば、われもその御ことばのごとくなり。また同座をもしてあらば、不審なることをも問へかし、信をよくとれかしとねがふばかりなりと仰せられ候ふなり(蓮如上人後一代記聞書)


 会長が尊敬する蓮如上人は「不審なることをも問へかし、信をよくとれかし」と門徒の方と同座して、仏法を語り合われました。会長は教えについて問うた人を粛清したわけですが、尊敬する蓮如上人と正反対な言動をしたのが分かります。

 これで親鸞学徒と言えるのでしょうか?

 また、蓮如上人はこのようにも仰せです。

「もとより我が安心の趣いまだ決定せしむる分もなきあいだ、その不審をいたすべき所に、心中を包みて有りのままに語らざる類あるべし。これを責め相尋ぬる所に、有りのまま心中を語らずして、当場を言い抜けんする人のみなり。勿体なき次第なり。心中をのこさず語りて、真実信心に基くべきものなり」(御文章4帖目8通)

現代語訳:いまだ信心決定していない人が、それについて不審を問うていかねばならないのに、心の中を隠してありのままに語らない人がおります。これに対し、別の人が尋ねても、思ったまんまのことを言わずに、その場を言いぬけようとする人ばかりです。もったいないことです。心中を残さず言葉に出してしまって、真実信心を頂く身になりなさいよ。


 蓮如上人は、信心の沙汰をする場所で発言するように促されましたし、心の奥底にある思いをさらけ出して、真実信心を頂くようお勧めになられましたが、現在の親鸞会ではこのように指導されています。

<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】

【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。

【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
 ※『ベッピンも 笑顔忘れりゃ 五割引き』

【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。

【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。


 平成の初期に、顕正新聞の「随行録」で「後ろ向きな発言は、自損損他である」とあって以降、親鸞会では「後ろ向きな発言をするな!」とやかましく言われ、ただでさえ無条件服従をやかましくいう教団内で、発言にも統制がかかってきました。

 確かに、「信心の沙汰する場所」としてハコモノが次々と建っているという大本営発表は聞きますが、その場所で信心の沙汰はなされているのでしょうか?講師部や会員の間で自力他力の水際を問う会合はありましたか?
 信疑の水際の沙汰や、信仰の喜びの声を、私は親鸞会の会合の中で10数年聞いたことがありませんでした。聴聞ノートをつけて、どのように会長が話したかをグダグダと議論し、そして、参詣、活動、財施の苦労話をするばかり。
 不審を問おうにも、「後ろ向き発言」と言われるのが恐くて問いを発することが出来ません。
そして、思考停止の状態で
「19願の御心に叶うように活動頑張りまーす、宿善求めまーす」
と自分を誤魔化してばかりでした。

 教えの面で間違っている面があったとはいえ、昔の座談会では、このような質問もありました。

問 最近、何もやる気がなく、何をする気力も出てきません(親鸞会館座談会)
答 そういうものを阿弥陀仏はねらっておられるのです。生命かけになって助けようとしておられる阿弥陀仏のみ心になんとか叶うようになりたいと求めさせて頂くのです。
 あなたが正客です。(「顕真」昭和60年11月号)

 これは、会長が本部(富山県高岡市)で行なった座談会の記録ですが、随分現在の親鸞会の教えと違います。「善知識に無条件服従」の狂った教えがその後の親鸞会をおかしくし、もはや修正の効かぬ状態になりました。情けないことです。

 諸行は無常です。宿善求められなくなる日が来るのですよ。今晩出て行く覚悟はいいのですか?自分を誤魔化し、粛清を恐れ、会長や幹部たちにゴマをすっていて助かるのですか?一刻も早く、己の姿に目覚めてほしいものです。
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無条件絶対服従のまとめ(改訂版)

2009.10.01 (Thu)

「無条件絶対服従」のまとめを改訂しました。タイトル末尾にマークをつけた記事が新規追加分です。


☆教えに従う=型にはまるではありません
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081201
☆無条件服従について
絶対無条件服従
http://homepage2.nifty.com/nonsect/shinrankai/school5.html

高森顕徹会長と絶対無条件服従
http://shinrankai.mondai.nukenin.jp/naze3.html

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか1
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-15.html

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか2
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-16.html

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか3
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-18.html

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか4
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-22.html
「清森問答」親鸞会教義の相対化・83
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-333.html

「苦笑の独り言」本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-427.html

親鸞会の本尊論に対する疑問 高森顕徹への無条件服従
http://ameblo.jp/honzonron/entry-10029521983.html
さよなら親鸞会 無条件服従
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/06/post_7239.html
自己否定と無条件服従
http://shinrankai.mindcontrol.tonosama.jp/naze8.html

☆講師部を辞めると1000万円の違約金
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2008/12/1000-2b87.html
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-140.html

無条件絶対服従のまとめ

2009.09.17 (Thu)

 長くてウザい連載が終わりましたので、「無条件絶対服従」の項を、外部リンクなどを通してまとめてみることにします。論文では「参考文献」が最後にありますが、参考文献の欄に当たるのが下記のリンクです。
 教学力や文章力に乏しい私の話なんぞはたわごとでありますので「えらく長い文章書いておったなあ」とでも受け止めてください。


☆教えに従う=型にはまるではありません
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081201
☆無条件服従について
絶対無条件服従
http://homepage2.nifty.com/nonsect/shinrankai/school5.html

高森顕徹会長と絶対無条件服従
http://shinrankai.mondai.nukenin.jp/naze3.html

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか1
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-15.html

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか2
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-16.html

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか3
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-18.html

「清森問答」親鸞会教義の相対化・83
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-333.html

「苦笑の独り言」本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-427.html


☆講師部を辞めると1000万円の違約金
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2008/12/1000-2b87.html
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-140.html

信楽房事件について考える(完結編)信楽房 「除名」の真相

2009.09.17 (Thu)

「信楽房事件について考える(7)自然の理」の所で信楽房が会長の深い御心により「除名」になった件について書かせていただきました。
 会長は、教えについて押し付けるだけでなく、自分の嫌いなもの、嫌いな人を会員に嫌いになるよう強要する傾向があるようです。

会長の嫌いなもの

・本願寺:教えのことばかり強調しますが、寺を継げなかった怒りもあるのでしょう。
・華光会及び増井悟朗師:増井師に頭が上がらなかった過去から散々なネガティブキャンペーンを行なっています。
・天皇及び皇室:自分が戦前の天皇のような存在になりたいだけなのかもしれませんが(爆)幹部の中で「天ダラ」と言っているのをよく聞きました。最初は何のことか分かりませんでしたが(笑)
・アルコール:会長の娘が酔った人に絡まれて以来、禁酒令が出たそうです。
・指の関節を鳴らす
・タバコ:会長は未成年の頃軍隊で吸っていたそうですが、禁煙に成功し、それ以来「会長先生がやめられたのだから、君達も吸うべきではない」と学生には圧力がかかるそうです。学生部(現学友部)の新歓合宿の時に禁酒禁煙の誓約書を書かせたりしています。


会長の嫌いな言葉

・地域社会:「地域も社会も同じだから」ということで嫌うそうです。
・オヤジ、おふくろ:学生時代に「ウチのおふくろが」と言った所、先輩から物凄い指摘を受けました。
・当局
・夫婦(「めおと」とよむ)


 そして、会長の嫌いなものの最たるものは、

ワシの言うことを聞かない者

でしょう。

「腕の2、3本へし折る」
「銃殺刑だ」


と、辞めていった人に対して一片の慈悲も見せません。それどころか、辞めたその日から「○○さん」と呼ぶことすら許されません。

 そのいわれは如何?親鸞会が会長を権力者(天皇)とした戦前の軍隊型組織だからです。だから、こういうことが平気で書けるのです。

「善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の『よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり』という真の無条件服従が体験できるのである。この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである」(出典:親鸞会発行『顕正新聞』)


 指示に従わない人や離脱する人は、非国民として人間扱いされません。それを徹底するためにも信楽房は会長の志向する組織にとってガンのような存在だったのでしょう。だから、除名に相当する解説書から帰参の記事の削除という扱いを受けたのでしょう。

 しかし、これは浄土真宗の宗義に基づいたものなのでしょうか?
 親鸞会が善知識と仰ぐ覚如上人に聞いてみましょう。

善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。(覚如上人・改邪鈔 「本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事」)


 覚如上人はこのように戒めておられますが、親鸞会は、このお言葉に「無条件服従」しているのでしょうか?
 残念ながら親鸞会は親鸞聖人の教えを説く集まりではないようです。お聖教のお言葉よりも高森氏のオレルールが優先される組織ですから。
 
 だから私は親鸞会を退会したのです。

 さよなら、親鸞会。

合掌

信楽房事件について考える(8)アニメ解説書の犯した過ちその1

2009.09.15 (Tue)

 親鸞会がチューリップ企画より出したアニメ「世界の光・親鸞聖人」完結編で、信楽房の離反について描かれておりましたが、この中で親鸞会は2つの過ちを犯しております。

・善知識に対する無条件服従を説いた。
・解説書で信楽房を「除名」にした。


 以上が大きな問題点であります。
 今回はこの中の「善知識に対する無条件服従を説いた」についてまとめてみようと思います。

 信楽房離反事件の所で、蓮如上人御一代記聞書の

「前々住上人へ、ある人、申され候う。開山の御時のこと申され候う。『これは、いかようの子細にて候う』と、申されければ、仰せられ候う。『われもしらぬことなり。何事も何事も、しらぬことをも、開山のめされ候うように、御沙汰候う』と、仰せられ候う」(蓮如上人御一代記聞書 159)
の言葉の「開山」を「お釈迦様」と置き換えて親鸞聖人が信楽房を諭される場面がありました。

 この言葉のことに関しては、
「親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか 3」
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-18.html

に詳述されておりますので、詳しくは割愛いたしますが、以下のことには十分に気をつけねばなりません。

 仏である釈尊から御教導頂けない時代には、仏ではない善知識に無条件服従するのは誤りであるとはっきり教えられています。
 仏ではない善知識が、間違ったことを教えているのかどうか凡夫にはどうかわからないのですから、何も考えずに鵜呑みにしては、異安心に陥る危険性が大です。

 そのことを『教行信証』化土巻では『涅槃経』から引用されて

また言わく、善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求するにあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。

と教えられています。教えられたことをただ鵜呑みにして、納得するまで推求、追及しないのは、「信不具足」、間違った信心である。また、ただ聞いているだけ、信じているだけで、納得するまで思惟しないのは、「信不具足」、間違った信心である、ということです。つまりは、善知識からいわれたことに対して、すべてのことを鵜呑みにして、納得もしない、考えることを放棄する、これが間違いを教えられるために親鸞聖人は『涅槃経』を引用されているのです(親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか 3)



変わららないものと変わるもの

 このように言うと、
「じゃあ鵜呑みにするなというのだから教義も変えていいとでもいうのか!」
と鬼の首でも取ったかのように騒ぎ出しそうな人がいそうなので、変わるものと変わらないものをしっかりと知っておかねばなりません。

 変えてはならないものは「教え」です。
「自力を捨てて他力に帰する」捨自帰他の教えは変わりませんし、変えてはなりません。

 どこぞの会長のように、
「親鸞聖人の比叡山での御修行によって、機の深信が知らされて救われた」
と説いたりするなぞ、もってのほかです。

「雑行をすてて本願に帰す」(教行信証)
の教えは「開山のめされ候うように」説かれなければなりません。
 そして、このように変わらず教え続けられてきたからこそ、蓮如上人は領解文に、
「この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候う」
とご自身の信仰の喜びを書かれたのでありましょう。

 では、変わるものとは何でしょうか?それは、教えの説き方や伝える媒体等です。
 教えを伝える媒体については、今日科学が発達し、いろいろなメディアを用いての伝道が可能な世の中を見れば一目瞭然でありますので、教えの説き方について少し詳しく述べてみましょう。

「如来の教法元無二なれども、正為衆生機不同なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によりなり」(口伝鈔14)
とあるように、教えは一つのものであっても、時と場合、その人の仏縁によって、受け止め方は様々です。
 だから、説かれる方は苦慮なされてきたのだとよくよく知らされます。
 親鸞聖人に不審を問い質しにきた人に対するお答え一つをとっても同じ親鸞聖人のお言葉なのか?と思うくらい異なる時があります。

「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたるをふかく信じて、となうるがめでたきことにてそうろうなり。信心ありとも、名号をとなえざらんは、詮なくそうろう。また、一向、名号をとなうとも、信心あさくは、往生しがたくそうろう。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなえんずるは、うたがいなき報土の往生にてあるべくそうろうなり。詮ずるところ、名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にてそうろうべき。このようを、よくよく御こころえそうらいて御念仏そうろうべし」(末灯鈔12)

「念仏はまことに浄土に生るる因にてやはんべるらん、また、地獄に堕つる業にてやはんべるらん、惣じてもって存知せざるなり」(歎異抄2章)


 ある人には懇ろに弥陀の本願を説き、また、身命を賭して京都を訪れた関東の同行には「知らん」と仰せです。それぞれに、宗祖のご配慮があったのではないかと察せられます。

 信心の世界は言葉にかからない世界でありますが、言葉にしなければ伝わりません。だからこそ、法を説く時は、言葉を選んで、相手をよく見て説かねばなりません。
 また、聞かせて頂く人も、教えを聞いて生じたいろいろな不審については、聴聞や信心の沙汰する場所で納得いくまで聞かせて頂くことが重要です。

 歴代の方々は、親鸞会のように、
「君達が理解していようが理解していまいが、高森先生の言われたとおり実行せよ」
と楽な教え方はしておりません。

 間違った教えをテープレコーダーのように繰り返し、それに強制的に従わせるような無条件服従の教えは親鸞聖人の教えではありません。

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プロフィール

カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

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