浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

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信楽房事件について考える(8)アニメ解説書の犯した過ちその1

2009.09.15 (Tue)

 親鸞会がチューリップ企画より出したアニメ「世界の光・親鸞聖人」完結編で、信楽房の離反について描かれておりましたが、この中で親鸞会は2つの過ちを犯しております。

・善知識に対する無条件服従を説いた。
・解説書で信楽房を「除名」にした。


 以上が大きな問題点であります。
 今回はこの中の「善知識に対する無条件服従を説いた」についてまとめてみようと思います。

 信楽房離反事件の所で、蓮如上人御一代記聞書の

「前々住上人へ、ある人、申され候う。開山の御時のこと申され候う。『これは、いかようの子細にて候う』と、申されければ、仰せられ候う。『われもしらぬことなり。何事も何事も、しらぬことをも、開山のめされ候うように、御沙汰候う』と、仰せられ候う」(蓮如上人御一代記聞書 159)
の言葉の「開山」を「お釈迦様」と置き換えて親鸞聖人が信楽房を諭される場面がありました。

 この言葉のことに関しては、
「親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか 3」
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-18.html

に詳述されておりますので、詳しくは割愛いたしますが、以下のことには十分に気をつけねばなりません。

 仏である釈尊から御教導頂けない時代には、仏ではない善知識に無条件服従するのは誤りであるとはっきり教えられています。
 仏ではない善知識が、間違ったことを教えているのかどうか凡夫にはどうかわからないのですから、何も考えずに鵜呑みにしては、異安心に陥る危険性が大です。

 そのことを『教行信証』化土巻では『涅槃経』から引用されて

また言わく、善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求するにあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。

と教えられています。教えられたことをただ鵜呑みにして、納得するまで推求、追及しないのは、「信不具足」、間違った信心である。また、ただ聞いているだけ、信じているだけで、納得するまで思惟しないのは、「信不具足」、間違った信心である、ということです。つまりは、善知識からいわれたことに対して、すべてのことを鵜呑みにして、納得もしない、考えることを放棄する、これが間違いを教えられるために親鸞聖人は『涅槃経』を引用されているのです(親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか 3)



変わららないものと変わるもの

 このように言うと、
「じゃあ鵜呑みにするなというのだから教義も変えていいとでもいうのか!」
と鬼の首でも取ったかのように騒ぎ出しそうな人がいそうなので、変わるものと変わらないものをしっかりと知っておかねばなりません。

 変えてはならないものは「教え」です。
「自力を捨てて他力に帰する」捨自帰他の教えは変わりませんし、変えてはなりません。

 どこぞの会長のように、
「親鸞聖人の比叡山での御修行によって、機の深信が知らされて救われた」
と説いたりするなぞ、もってのほかです。

「雑行をすてて本願に帰す」(教行信証)
の教えは「開山のめされ候うように」説かれなければなりません。
 そして、このように変わらず教え続けられてきたからこそ、蓮如上人は領解文に、
「この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候う」
とご自身の信仰の喜びを書かれたのでありましょう。

 では、変わるものとは何でしょうか?それは、教えの説き方や伝える媒体等です。
 教えを伝える媒体については、今日科学が発達し、いろいろなメディアを用いての伝道が可能な世の中を見れば一目瞭然でありますので、教えの説き方について少し詳しく述べてみましょう。

「如来の教法元無二なれども、正為衆生機不同なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によりなり」(口伝鈔14)
とあるように、教えは一つのものであっても、時と場合、その人の仏縁によって、受け止め方は様々です。
 だから、説かれる方は苦慮なされてきたのだとよくよく知らされます。
 親鸞聖人に不審を問い質しにきた人に対するお答え一つをとっても同じ親鸞聖人のお言葉なのか?と思うくらい異なる時があります。

「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたるをふかく信じて、となうるがめでたきことにてそうろうなり。信心ありとも、名号をとなえざらんは、詮なくそうろう。また、一向、名号をとなうとも、信心あさくは、往生しがたくそうろう。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなえんずるは、うたがいなき報土の往生にてあるべくそうろうなり。詮ずるところ、名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にてそうろうべき。このようを、よくよく御こころえそうらいて御念仏そうろうべし」(末灯鈔12)

「念仏はまことに浄土に生るる因にてやはんべるらん、また、地獄に堕つる業にてやはんべるらん、惣じてもって存知せざるなり」(歎異抄2章)


 ある人には懇ろに弥陀の本願を説き、また、身命を賭して京都を訪れた関東の同行には「知らん」と仰せです。それぞれに、宗祖のご配慮があったのではないかと察せられます。

 信心の世界は言葉にかからない世界でありますが、言葉にしなければ伝わりません。だからこそ、法を説く時は、言葉を選んで、相手をよく見て説かねばなりません。
 また、聞かせて頂く人も、教えを聞いて生じたいろいろな不審については、聴聞や信心の沙汰する場所で納得いくまで聞かせて頂くことが重要です。

 歴代の方々は、親鸞会のように、
「君達が理解していようが理解していまいが、高森先生の言われたとおり実行せよ」
と楽な教え方はしておりません。

 間違った教えをテープレコーダーのように繰り返し、それに強制的に従わせるような無条件服従の教えは親鸞聖人の教えではありません。
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プロフィール

カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

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