浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

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辛口!真宗時評での断章事件を追う(2) 論点はどこか?

2009.10.19 (Mon)

 先回は、「辛口!真宗時評」管理人の勧誘の活動について紹介いたしました。今回はもう一度この事件の争点は何であるかをおさらいしましょう。
 事の発端は、辛口!真宗時評の10月5日の記事でした。「みほとけとともに 西本願寺の時間」での登尾唯信氏のラジオ法話に対し、makino氏は、このように批判いたしました。

こういう自己流の解釈を説法と呼べるのか

ラジオ法話「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
登尾唯信氏の「挫折もまた人生」でした。
豆腐を運んでいた少年が、転んで、豆腐を落としてしまっ
たけれども、豆腐屋さんは「お母さんに謝るしかないな」
と言い、お母さんは、「まだここは食べれるからね」と、
少年をとがめなかった、そこに、阿弥陀如来の慈悲を見て
云々・・・・。
途中、聖人のお言葉を少し出しているとはいえ、全編これ
「私は、このように味わいました」という自己流の解釈で
終始しています。

あなたのその解釈が、祖師の御心にかなうのか、どうか。
それは、祖師のお言葉を示して、明らかにせねばならぬと
ころですが、それがなければ、「自己流の解釈」といわれ
てもしかたありません。

「聖人一流のご勧化のおもむきは」
「祖師聖人ご相伝一流の肝要は」
「それ聖人のご一流においては」
常に、親鸞聖人の御心一つ、明らかにされた蓮如上人です。

「さらに親鸞珍しき法をもひろめず。
 如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」
親鸞聖人は、常に、釈迦如来の教法=仏教一つ明らかにされ
ました。

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
釈迦は、一代、阿弥陀如来の本願一つ説かれました。

さすれば、弥陀の本願を、釈迦もそれ一つ教えられ、祖師も
それ一つを明らかにされ、蓮如上人も無我に相承していかれ
たのでした。

上記のラジオ法話は、とても、その御一流からは大きくかけ
はなれたと、言わざるを得ません。(辛口!真宗時評 こういう自己流の解釈を説法と呼べるのかより)


 本願寺派、大谷派、その他真宗十派と言っても、まことの信心を頂いて、そのままを説かれる方もあるでしょう。味わいばかりに終始する人もおります。ただ、法話を聞かせていただく側の思いとしては、教化する人には以下の「蓮如上人御一代記聞書」のお言葉を胸に、話をして頂きたいものです。

一 聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり(蓮如上人御一代記聞書89


 さて、先の「辛口!真宗時評」の記事に対し、淀川コナンさんという人から、10月7日にコメントの投稿がありました。
 

私も、自己流の解釈をする布教師を知っています。
例えば、親鸞聖人のご和讃の
若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生かならずさだまりぬ
の解釈を
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心になれる時が必ず来るんだ
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈しています。
管理人様ならご存知だと思いますが、このご和讃は
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈されます。
ご自分の味わいとしてならば、宜しいとはおもいますが....。

 
 ここで、自己流の解釈をする布教師といわれる人とは誰なのでしょうか?浄土真宗親鸞会会長の高森氏であります。
 高森氏は、

 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
意訳:わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。(無量寿経・18願文より


と仰せになられた阿弥陀仏の18願文の、「もし生ぜずは、正覚を取らじ」の「生れる」の部分を「信楽に生まれさせる」と自己流の解釈をしております

 この間違いについての文証は、以下の通りです。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり(尊号真像銘文【1】

「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。「此即是願往生行人」といふは、これすなはち往生を願ふ人といふ(尊号真像銘文【10】

「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。(唯信鈔文意【8】



「尊号真像銘文」は「わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」、「もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり」とありますし、「唯信鈔文意」には、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とあります。これらの親鸞聖人のお言葉から、「信楽の心になった者を、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれさせることが出来なかったならば、仏の悟りを開きません」ということは明らかであります。

☆どちらがウソか?
浄土真宗:若不生者の「生」は信楽の心になった人を阿弥陀仏の浄土に往生させることである。
親鸞会:若不生者の「生」はすべての人を信楽の身にするである。
親鸞聖人:わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり


 そして、これについて、論争があったブログは以下の通りです。
チューリップ企画と田中一憲の法論
若不生者の「生」は、なぜ「信楽に生まれる」なのか。
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プロフィール

カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

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