浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

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阿弥陀仏の本願を聞信するとはいかなることか?(1)

2009.09.23 (Wed)

 親鸞会は「熱心な聞法」を勧める集まりだとのことですが、実は、「聞法」そのものの定義が誤っているようです。発端となったのはこの記事でした。

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。
 では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。
「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)
「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。
 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。

浄土真宗親鸞会 現代に生きる仏説 聞法の決勝点
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20090815.htm


 また、講師部員のM氏のブログにも、このようにあります。


「聞というは、衆生、仏願の生起本末をききて疑心あることなし。
 これを聞というなり」(教行信証信巻)


ここは、本願成就文の「聞其名号」の聞について、述べられた
ところです。

衆生とは、私たち、すべての者です。
仏願とは、阿弥陀仏の本願のことです。
生起とは、生まれ起こされた、ということで、阿弥陀仏が本願を
建てられた、ということです。
その本末とは、もとから、末まで、です。

 なぜ、阿弥陀仏は、本願を建てられねばならなかったか、
そのもとから末まで、聞かせていただいて、それに「疑心ある
ことなし」疑いの心、あることなし、となったことを、「聞」と
いうのだ、と仰せです。
 「あることなし」ですから、今、一時、なくなるだけでなく、
ずっとないこと、金輪際なくなったことを、「あることなし」と
言われているのです。

辛口!真宗時評 「とことん聞く」とは?<聴聞>について
http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/537/



 以上から分かるのは、親鸞会の講師部員は、
「仏願の生起(阿弥陀仏が御本願を建立されたお謂れ)」を本から末まで聞くと解釈しているということです。これについて会長から注意がないということは、会長もそのように説法しているのでしょう。
 実際、顕正新聞の昭和52年3月号の講演録には「本から末まで聞いて」とありましたから。

 しかし、これについて大事なことが抜けていますので、これから明らかにし、今一度、聴聞について考え直して頂きたく思います。
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プロフィール

カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

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