浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

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阿弥陀仏の本願を聞信するとはいかなることか?(3)

2009.09.24 (Thu)

 先回は、
「聞というは、衆生、仏願の生起本末をききて疑心あることなし。これを聞というなり」(教行信証信巻)
のお言葉の解釈の誤りについての指摘を上げてきましたが、いかなることをいかなるように聞くのを「聞」というのか、一度考え直して頂きたいと思います。

仏願の生起本末と機無・円成・回施

 ここのところを、昨夜お酒の席で、皆さんと話し合った。親鸞聖人は、「聞(もん)というは、仏願の生起(しょうき)本末を聞いて疑心あることなし」とおっしゃる。仏願というのは、仏様が本願を起こして下さった、その起こりと本末を聞いて、そこに疑う心があることなし、絶対になくなりきってしまったのが、本当に聞いたということになる。仏法を聞く、というのは、何を聞くかといったら、仏願の生起本末を聞くのだ、ということで親鸞聖人は『教行信証』の中で、的確な表現で示して下さったのです。
 ここには、機無(きむ)・円成(えんじょう)・回施(えせ)という論理が流れています。「機無」の機というのは私のこと。私には何も誇らしげに見せたり、仏になれるようなりっぱなものは全く何も無い。だから仏様は、私が真実になれるものを、まろやかに完成、「円成」して下さって、光明無量・寿命無量のお悟りを開いて下さり、それを注ぎこんでお浄土というものを作って下さった。しかしお浄土で待っていても、私達が一向に来ないから、その徳を全部南無阿弥陀仏の中に入れこんで、迷いの私達の心の中にぶちこんで、廻向し「廻施」して下さる。「機無・円成・回施」の論理が、原理といいますか、これがみ教えの中に働いていて下さるのです。

浄土真宗華光会 法話(機関紙バックナンバー) 化生の南無阿弥陀仏より
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/kekousi/houwa/54-4houwa.htm


第二十願の「聞我名号係念我国」という聞は、名号を聞くといっても、なお名号の真実の義に達しない不如実の聞である。これに対して本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とある聞は、所聞の名号の其実の義に達した如実の聞である。
その名号の義とは、信文類に本願成就丈の聞其名号を釈して「仏願の生起本未を聞いて」等と言われる「仏願の生起本末」がこれである。「仏願の生起」とは、本願は誰のために起こされたかということで、それは迷いの衆生のためであり、この衆生の性得すなわち機実をいえば、無有出雛之縁である。「本」とは困本の義で法蔵困位の願行であり、「末」とは果末の義で本願成就の果である。よって、仏願の生起本末とは、無有出難の機のために、大悲の誓願を起こして永劫に修行せられ、遂に十劫の古に正覚を成就して常に衆生を招喚したもうのであって、これが名号の義である

坊さんの小箱 宗義問答・旧論題 1.聞信義相より
http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/1kgaku.html


然経言聞者 衆生聞仏願 生起本末 無有疑心 是曰聞者
 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり

▼意訳(「現代語版」より)
無量寿経に『聞』と説かれているのは、私たち衆生が、仏願の生起本末を聞いて疑いのこころがないのを聞というのでる)。

と示されています。
註:〈生起本末とは、仏願の起こり来ったおいわれ(由来)であり、その願が成就されている事実、結果をいう。〉
 罪悪深重の凡夫があるが故に本願が生まれたのであり、凡夫の、衆生の苦悩に対して発せられた如来の誓願であり、罪悪深重の凡夫を憐れんで救わんが為に発願されその結果(本末)、成就されている第十八の誓願があるといえる。


 元来、他力の信心はその体は名号法そのものである。名号の内容は「信巻」における成就文の釈のごとく「仏願の生起本末」である。この仏願の「生起」を聞いたのが機の深信の内容であり、また仏願の「本末」を聞いたのが法の深信の内容といわれる。この仏願の生起本末の内容を自らの側の仕事とするのが信罪福心の自力心である。それ故、一深心を二種に開かれた理由はこの信罪福心を否定せんがためといわれる。即ち仏願の生起を聞くことによって信罪の心が否定され、仏願の本末を聞ことによって信福の自力心が否定されるのである。

『現代の教学問題』  二種深信について(48頁・稲城選恵師)


聞法ノート 第一集 14 第十八願 念仏往生願
浄土真宗やっとかめ通信 (東海教区仏教青年連盟)
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/mizutani114.html

 これらから分かるのは、以下の違いであります。

浄土真宗
・仏願の生起(罪悪深重の凡夫があるが故にご本願が生まれた)
・本(法蔵困位の願行)
・末(十劫の古に正覚を成就し、南無阿弥陀仏を成就なされ、衆生に回施しようとなされている)


親鸞会
・仏願の生起を本から末にかけて聞く=自分の姿を聞く


 もう一つ、親鸞会の聴聞に対する誤解がありますので、次回例示いたします。
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カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

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