浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

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「行者正受金剛心」のトンデモ解釈(その2)

2009.10.12 (Mon)

 親鸞会の会員のブログの教義面の解説を見ますと、「頭が狂うと尻尾も狂うのだな」と思わずにはいられませんし、その人の理解や信仰がいかなるものかが窺えてしまいます。悲しいことです。

聞いてさえおれば助かる?

 昨日は、「仏法は聴聞に極まる」について、高森顕徹先生の御法話をビデオで聴聞しました。

「聞く一つで助かる」ことを、「聞いてさえおれば助かる」と誤解している人が多いと言われますが、それは全く違うことを教えて頂きました。

 教えを聞くということは、教えに納得するということであり、教えを納得したならば、教えの通りに実行する筈です。

 高森先生も、次のように教えられています。


 知りながらテストに白紙を出すバカがいないように、知った分ったといっても実行がなければ分ったとは言えない。行者正受金剛心、與韋提等獲三忍”(正信偈)
とあるように韋提と等しく金剛心を正受するのは行者なのだ。
“そんなことできません”と韋提希は言ってはいない。
 一途に彼女は釈尊の教えに従っているではないか。
 教えに従ってこそ行者、知っただけでは行者ではない。


 救いに遇うまで進ませて頂くには、実践が大切ですね(^^)(浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介「聞いてさえおれば助かる?」より)


 恐らくブログを任されるということは、講師部か、支部の幹部であろうと思われますが、この幹部は少し賢いのか、会長の「年頭所感」を出しております。しかし、解釈は相変わらずでして、「行者正受金剛心」の正信偈の「行者」を「善を行なった人」と規定しております。
「行者」が善を行なった人でも、親鸞会の教えに従って献金や人集めをしている人でもないということは、「『行者正受金剛心』のトンデモ解釈」で示した通りです。

 今回は、別の角度から突っ込んでみましょう。このブログでは、聴聞の義を、以下のように言っております。
「教えを聞くということは、教えに納得するということであり、教えを納得したならば、教えの通りに実行する筈です」

 では、実践というのは何をさしているのでしょうか。会長はこのように言っております。

「そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて」と、朝夕『聖人一流の章』で教えられているが雑行が棄たらない。

 煙草のまない人に“煙草のむな”と言う人がいないように、“煙草止めよ”、と言われるのは、煙草をのんでいる人にである。

 同じく、雑行を棄てよ、と言われるのは、雑行をやっている人にである。

 雑行とは、一大事の後生に驚き、弥陀一仏に向かい、なんとか後生助かりたいと思い、真剣に励んでいる諸善をいうのである。

 後生助かりたいの思いもなく、真剣に諸善もせず、弥陀一仏にも向かってない人に、雑行を棄てよと言っても、分からぬのが当然である。

 雑行と言われるものが、問題になるところまで進んでいないからだ。

 なぜ真剣に諸善もせず、弥陀一仏にも向かないのかと言えば、後生の一大事が問題になっていないからである。

 後生の一大事が、なぜ問題にならないのかと言えば、三世因果の道理が徹底していないからだ。

 釈尊が先ず、因果の道理を教えられた仏意が知られよう。

 阿弥陀仏の19願は、少しは諸善ができる、少しは助かる手がかりがあるだろうと思っている自惚れ心を粉砕し、雑行を棄てさせる方便願である。

 この阿弥陀仏の19の願意を開説されたのが釈尊の『観無量壽経』であり、“機の真実”が説かれた経とされている。(浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介「雑行が棄たらぬ」より)


 この、深い御心(笑)を意訳すると以下のようになるかと思います。

 親鸞聖人の教えは三願転入だから、19願の善として、財施や破邪顕正が教えられているのだ。まずは仏法を理解して後生の一大事を知り、知らされたら田んぼも畑も家も全部売り払い、アパートに住んで財施をしなさい。2000畳が満杯になるよう、ダミーサークルでも何でも使って嘘八百並べてでもいい、人を連れて来なさい。ただし、無条件服従しないと19願は分からない。
 雑行雑修自力の心を知るには30~40年かかる。講師部でも19願の入り口にも立っていないのだからヒマかかるぞ。平生業成、一念往生と言われるが、実際は100年、200年で得られるちっぽけなものではない。30年、40年求めて得られる簡単なものでない。
 ただし、オレに無条件服従してきた者は、臨終に観音菩薩の説法に遇えるぞ。除名になった人や、やめた者?「一切衆生 必堕無間」に決まっとるやないか。


 これが果たして、浄土真宗といえるのでしょうか??(続く)
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コメント

No title

はたから見れば、この人たちは一度でも観経を読んだことがあるのだろうか?と思われても仕方が無いと思います。
会長の受け売りをネットに書くのは恥を書くだけです。
「教義をブログに書いたらいけない」という通達が流れるかも知れないですね。

Re: No title

>元幹部様

> はたから見れば、この人たちは一度でも観経を読んだことがあるのだろうか?と思われても仕方が無いと思います。
 
 多分、会長のフィルターを交えずに、真宗聖典を読むことは、間違った理解につながるから、会長の本以外は読んだらアカン、とでも思ってまともに読んでいる人は少ないでしょう。
 昔の学担か幹部かは分かりませんが、下宿回りで、親鸞会以外の仏教書を読んでいるのを発見した後、没収して廃棄したというようなことがあると聞いています。

> 会長の受け売りをネットに書くのは恥を書くだけです。

 書けば書くほどトンデモぶりが明らかになりますね。最近、自分のかつての聴聞メモを見て、何を言っているんだこの人は!と憤りを感じました。 

> 「教義をブログに書いたらいけない」という通達が流れるかも知れないですね。

 多分、バレたら巨大掲示板に流されそうなので、通達ではなく、口頭での徹底になるのかなと思います。ちょうど会長の日程のように。でも流れちゃうんですけどねw

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プロフィール

カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

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