浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

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親鸞聖人の「念仏」を読む上での前提

2010.01.07 (Thu)

 親鸞会は「信」と「行」をやたら分けたり、「行」を信心に対するグリコのおまけ(爆)みたいに釈したりする場合があるので、宗祖の御消息第七通のお言葉をここに上げてみました。引用したご文の中で、太字の部分は特に大事な所です。
 これから私が何かを展開するかどうかは、私の機嫌次第、かもしれません(爆)

 四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

 いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし。

   五月二十八日           (花押)

  覚信御房 御返事

 専信坊、京ちかくなられて候ふこそ、たのもしうおぼえ候へ。また、御こころざしの銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候ふ。

 [「建長八歳丙辰五月二十八日親鸞聖人御返事」]

御消息第七通

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プロフィール

カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

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