浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

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安心とは?「雑行雑修自力の心をふりすてて」とは?(2)

2010.01.10 (Sun)

 深川倫雄和上の「改悔批判 (平成7年)」での領解文の法話(計6席)の第四席から第六席の、「安心」の所を引用させていただきました。

 近藤さんのブログのエントリの
タノムタスケタマヘの義
たすけたまへとたのむの出処
さらにしつこく「タノム」について
マカセヨ助ける
「機法一体」と「たすけたまへとたのみ」と「二河白道」との関係
の加茂仰順師、稲城選恵師の文、近藤さんの解説と併せてお読みいただきますと、「安心」が見えてくるのではないかと思います。
第四席(一月十二日)

 はじめの安心の「雑行・雑修自力の心」とは身口意の三業をわが智恵の力で、目出度く整えて往生しようと思うことを自力と申します。雑行・雑修とは念仏以外の雑多な善根を修めて、それを仏前に回向して往生しようとするのが自力の行と心であります

 自分のすること、思うことに価値ありとする心が、自力の心で有ります。然るに自分の考える事を、総て誤りであるとして振り捨てる為には、かわりのものがなければなりません。それが「汝の後生は引き受けた」という弥陀のお名告りであります。「汝をたすくる」という如来の呼び声に、身を任せる処を「恩たすけ候えとたのみ申す」と出言しました。仏様の側から言えばお呼び声、即ち南無阿弥陀仏、平たく言えば「たのめ、たすくる」であります。

 南無の二文字は「たのめ」阿弥陀仏の四文字が「たすくる」。「たのめ」は機の方、「たすくる」は法の方、即ち機法一体に仕上がった南無阿弥陀仏であります。たのまねばならない私の仕事は、如来のお手許に成就して、「たのめ」と、ご回向であります。それを私の信受の側で申しますと「たのみもうして候」、「たすくる」という弥陀の呼び声に、身を任せますと「たすけ候え」。少しも私の方からのお願いは雑ざっておりません。雑ざえてはなりません。唯々「たのめ、たすくる」のお呼び声に身を当てて、「たすけなされ」と「たのみもうす」というのであります。

 「今度の後生の一大事」とは、今の世が現世であって、これから後の行く先が後生です。次にどんな境涯に生まれるかは大問題であるから「一大事」であります。私の業からいえば地獄は一定でありますから、自力ではどうにもなりません。ここに名号、信受の端的、即ち自力を捨てた処、臨終を待つ事無く、来迎たのむ事無く、弥陀たのむ一念に、往生成仏決定であります。これを「たのむ一念の時、往生一定御たすけ治定」と出言したのであります。これを信心正因・平生業成と申します。既に未来は決まっております。これから先は何が起ころうとも少しも案ずることはありません。臨終すんで葬式すんで、今は浄土を待つばかりであります。

 以上は安心の一段であります。

第五席(一月十四日)

 安心の段は初めから「治定と存じ」までであります。「雑行・雑修」雑行とは、宗門のお勤めでないものを読んだり、如来、聖人など、決まったもの以外のものを拝んだり、祭ったり、願をかけたり、祈ったりすることであります。お経を読むとか、お供えをする、法事をするなどは、御恩報謝の営みでありますが、此のような事が功徳になると思っていることを雑修と申します。雑行も雑修も自力の心でしているものであります。

 「自力の心をふりすてて」とは、以上のように、雑行・雑修を真心を込めて、大真面目でする心のことを、自力の心と申します。諸善万行を真心を込めてやって、お浄土参りの足しにしようという自力の心を「ふり捨て」捨て去りました。私共の真心という、そのものが雑毒の心、煩悩の毒の雑った心であります。


 「後生の一大事」とは、後生とは死んだ後の境涯、折角生まれ難い人界に生まれながら、また流転の境涯に還るか、お覚りの浄土に往生するか、ここは一大事であります。
 「御たすけ候へ」とは、如来様の「たすけさせてくれよ」とある呼び声に身を委ねて、仏智不思議のお計らいに、お任せいたしますということであります。

 「たのみ申して候」とは、この「御たすけ候へ」と言ったことがたのんでいる相であります。従って「たのませて、たのまれ給う弥陀なれば、たのむ心は我とおこらず」などと申します。「たのむ」と申しましても、我が方から願い、祈るものではありません。

 以上の出言は、南無阿弥陀仏の心を言ったものであります。南無の二文字は衆生の側の「あすけたまえとたのむ」の機の分。阿弥陀仏の四文字は「汝の後生は引き受けた、かならずたすくる」の法の分。即ち機法一体の南無阿弥陀仏のお心を顕したのであります。これを如来様の側で言えば南無は「たのめ」阿弥陀仏は「たすくる」であって、「たのめたすくる」というお心の南無阿弥陀仏、お喚び声であります。私共の方から南無とたのばねばならぬものを、如来のお手許にたのむ心を成就して、「たのんでくれ」との賜り物、機法一体の回向であります。 自力を捨ててお任せした時が、平生業成、信心正因。私の成仏の因徳は成就したのであります。これを「たのむ一念の時、往生は一定、御たすけ治定と存じ」と出言しました。

第六席(一月十五日)

 はじめに安心。雑行・雑修とは、自力の心をもって、「我が善を行う」と思いつつ、さまざまな善を為すことであります。善を為すのが何故よくないか、善を為してはいけないとは言わないが、己の功、己の善根と執じ誇って行い、これを仏前に供えようとするのが自力、ご報謝の意味で行えば、他力報恩の営みで有ります。

 如来さまは「仏願の生起本末」といわれる「生起」の所で、衆生には仏意にかなう善は出来ない、たとい真剣になって勤めても、煩悩という毒の雑った善であるとご覧になりましたので、私共の善根は成仏への邪魔になっても足しには成りません。

 『阿弥陀経』に不可以少善根とありまして、少善根では不可であると仰せであります。少善根とは凡夫の行う善根はすべて少善根であります。どれほど真心込めて行っても、浄土に参るのには不可であるということであります。「お前の真心が役に立つと思うなよ」という仰せに従うのが、「自力の心をふり捨てる」と言う言葉であります。

 「後生おたすけ候へ」とは、「汝の後生、無量寿の未来まで、今生に届いた南無阿弥陀仏の中に用意はすんだぞ」という如来の呼び声に随順したのが「おたすけ下さると、先手をかけてのお呼びかけでありますので、助けて頂きましょう」と任せたという意味であります。

 それを更に「たのみ申して候」と重ねました。「たすくるぞ」という如来に「それではたのみ申す」という所には、既に大恩であるという含みがありますので、信心のことを広大難思の慶心とも申します。

 「たのむ一念」とは、曠劫流転の私共の永い歴史の中で、この度、名号を信受した初めの時ということで、「往生一定」とは、念仏称名して年月経ってからではない、臨終に及んでからではない。平生の折、自力を捨てて名号が頂かれた時、往生は決定するということであります。

 「おたすけ」とは、この迷界から浄土に迎え覚りを開かしめるのが如来の眼目であります。信心の初一念に決定しているから信心正因と申します。
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コメント

お西の和上がたの御法話も御著書もどれもすごいですね。
梯師、加茂師、深川師、稲城師…
S会ではとてもこんなお話聞けませんでした。

読んだから救われるわけじゃないですが、一生懸命読みたいです。

>るぅでるさん

 これ一つ本当に分かったら、往生一定の所を実に平易に説いておられるのが分かります。
「念仏称えて死んだら極楽」プロパガンダと「善のすすめ」により捨自帰他の教えから遠ざけた罪は大きいです。

 あ、読んで救われるかを計らうより、今読み破りましょうよ。今、ここのご本願ですから(^-^)

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プロフィール

カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

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