浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会

親鸞会教義の誤りや問題点をまとめて行きたいと思います。

  • « 
  • 10 
  • 11 
  • 12 
  • 13 
  • 14 
  • 15 
  • 16 
  • 17 
  • 18 
  • 19 
  • 20 
  • 21 
  • 22 
  • 23 
  • 24 
  • 25 
  • 26 
  • 27 
  • 28 
  • 29 
  • 30 
  • 31 
  • »

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「歎異抄をひらく」を読んで(2) 何を歎かれたのか?

2010.01.08 (Fri)

「歎異抄」の中で、作者が何を歎かれたのか、その原点が法然聖人門下の一念多念の争いの中にあります。
 これを大別して、江戸時代天保期の学者の妙音院了祥師は、以下のようにまとめました。
譬名別信の計:信心往生を強調するあまりに念仏を否定する。一念義系に属する。
専修賢善の計:悪人を救うからといって、悪をほしいままにするのは邪見であるといい、悪を慎み、念仏を一生涯励まなければ往生できないという異議。多念義系に属する。

 では、一念義と多念義とはいかなるものか、本派の安居会の判決から学ばせて頂きましょう。

more »

「歎異抄をひらく」を読んで(1) 会員時代に言えなかった会員時代の感想

2010.01.07 (Thu)

「先生、老いたな」
 退会する1年4ヵ月前に、私が「歎異抄をひらく」を一読しての第一声でした。
 まず、文章にキレがない。そして教行信証やその他の親鸞聖人のお言葉をベースにがっつり解釈しているのかと思いきや、普段の説法を貼り付けているだけのようなペラペラの内容でした。
 正直な話、「オレが書いたほうがいいんじゃねえの?ただいろいろな根拠を見出すのにバテて頓座するだろうが」と思っていました。

 会員時代最後の6年間は、進まぬ説法を無理やり有難がったり、教学講義の歯切れの悪さや次々来る金集めの催促に正直イライラしていましたし、そんな最中の「歎異抄をひらく」のあの完成度でしたから、苛立ちの加速は半端ではありませんでした。

 ただ、これを会員の前で口に出したら、間違いなく指摘か除名は免れないだろうと思っていたので、会員の前では、このように言っていました。

「いやあ、僕がこの本の作者であったら、あれやこれやと教行信証の文証上げて、かえって分かりにくい本にしていたかもしれないなあ。先生は言葉を選んで、要の所をコンパクトに書いておられる。やはりレベルが違うなあ」

 会長の歯切れの悪さや会の腐った内情に辟易しながらも、「先生の言うことは間違いない」とかたく信じていましたので、そのように思い込むしかありませんでした。

 そして、しばらくの間、「歎異抄をひらく」は書庫の中に眠っていましたが、退会後、皮肉なことに、梯和上の著書や、近藤さんのブログを通してあの本を読み返す縁があったので、読み返してみました。

 言及したい所はいろいろありますが、まとめると、以下の三項目になります。

・信疑廃立がしっかりと説かれていない。
・行(念仏)と信の関係についての説明で信心を立てすぎる余りに、行がグリコのおまけみたいになっている。
・実は、自由奔放に解釈をしているのは会長自身であった。


 歎異抄について、核心を突いたところは近藤さんのブログにありますので、私自身は、ちょっと別の角度から歎異抄を通して親鸞聖人の教えを明らかにする真似事でもしてみようかな、と思っています。

 実は、信の一念と行の一念についての御消息第七通のお言葉とか、念仏為本の安心論題を出したのは、これから先のためのジャブである、かどうかは想像におまかせします(笑)

顕真学院のブログを読んで~ごちゃ混ぜな教行証

2009.10.11 (Sun)

 浄土真宗親鸞会の布教師を養成する、顕真学院という機関があります。
 ここで養成される人の、仏法の理解のレベルがいかなるものか、以下の記事を通して考えてみましょう。

今週、夏休みを利用して学生さんがたくさん顕真学院に学びに来られました!

他ではなかなか教えてもらえないことを教えてもらった!!!とみんな、喜んで帰っていきました。

こんなことを思って顕真学院に来る人が多いみたいです。

”顕真学院に来たら、顕真学院で学べば、自分を変えられる”

そんな思いを持っている人が多いそうです。けれども、教えてもらったことを実行しなければ自分は変えられません。教えられた通りに実行することで自分を変えられるんですよね。

仏教の骨目は教行証だと教えて頂いたことを思い出しました。

教とは教え

行とは実行

証は結果

まず教えを正しく知る。そして、教えの通り実行して、証(さとり)をひらくということです。


例えば、郵便局に行きたいと思ったら、まず、郵便局がどこにあるか、調べて(教)、そして、地図通り行って(行)、郵便局に着く(証)ということです。

顕真学院に来て自分を変えたいと思ったら、教えてもらった事を続けて実行することが大事です。そうして初めて、自分を変えられるという結果が得られます。顕真学院はその自分を変えるきっかけだと私は思います。いかに続けていくか。継続してやていくことは難しいことですが、その難しいことをやり遂げた人が他の人が羨む結果を得られるんだと思います。顕真学院に来た事がその人の大きな財産になってくれたら、と思います。(浄土真宗親鸞会 顕真学院のブログ「実践が大事」より)


 この顕真学院という機関が浄土真宗と名乗る団体の所属であるとするならば、ここに書かれてある「教行証」の定義そのものがおかしいと思います。
 通仏教では教行証(教えによって修行をして悟りを得る)が原則ですが、浄土真宗では他力の教え(教)により阿弥陀仏が、善の出来ない我々のために五劫の間思惟し、兆載永劫のご修行を経て成就なされた南無阿弥陀仏の大行(行)私たちが頂き、往生定まる身となり(信)往生成仏する(証)となります。

 このブログを書いた人は、「教とは教え、行とは実行、証は結果」と定義して、教えの通り実行すれば自分を変えられると言っておりますが、自らの行(のようなもの)によりますから、少なくとも浄土真宗の大行ではありませんし、「他の人が羨む結果を得られる」と言っている時点で、勝他、名聞の臭みが感じられますから、聖道仏教にもなりません。

 浄土真宗親鸞会の布教師を養成する、講師学院として開講してより24年の歳月が経ちますが、本当の親鸞聖人の教えを伝える布教師がどれだけ育ったのでしょうか。
 会長や会の諸問題のもみ消しに暗躍する講師部員は、今も残っているようですが、まともに親鸞聖人の教えをお伝えしたいと思い、信仰に悩める人に自力他力の水際を伝えられる人は、会に残っている講師の中にはいないようです。
 別に自己を変えることや、己を向上させるのが悪いと言っているのではありません。
 ただ、教えの向かう所がおかしいだけなのです。
 言葉の乱れは思想の乱れと会にいたころよく聞きましたが、布教師養成機関のブログで浄土真宗と異なったことが平然と書かれている様を見て、親鸞会の未来はどうなることかと危惧せずにはいられません。

※真宗の教行信証のまとめ
・「教」=「無量寿経」(「教行信証 教巻」本願を宗とし名号を体とする)
・「行」=念仏・17願「諸仏称名の願」(「教行信証 行巻」)
「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」
・「信」(衆生の果・生因)=信心・18願「至心信楽の願」(「教行信証 信巻」)
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」
・「証」(仏果)=往生成仏・11願「必至滅度の願」(「教行信証 証巻」)
「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住しかならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。」

阿弥陀仏の本願を聞信するとはいかなることか?(3)

2009.09.24 (Thu)

 先回は、
「聞というは、衆生、仏願の生起本末をききて疑心あることなし。これを聞というなり」(教行信証信巻)
のお言葉の解釈の誤りについての指摘を上げてきましたが、いかなることをいかなるように聞くのを「聞」というのか、一度考え直して頂きたいと思います。

仏願の生起本末と機無・円成・回施

 ここのところを、昨夜お酒の席で、皆さんと話し合った。親鸞聖人は、「聞(もん)というは、仏願の生起(しょうき)本末を聞いて疑心あることなし」とおっしゃる。仏願というのは、仏様が本願を起こして下さった、その起こりと本末を聞いて、そこに疑う心があることなし、絶対になくなりきってしまったのが、本当に聞いたということになる。仏法を聞く、というのは、何を聞くかといったら、仏願の生起本末を聞くのだ、ということで親鸞聖人は『教行信証』の中で、的確な表現で示して下さったのです。
 ここには、機無(きむ)・円成(えんじょう)・回施(えせ)という論理が流れています。「機無」の機というのは私のこと。私には何も誇らしげに見せたり、仏になれるようなりっぱなものは全く何も無い。だから仏様は、私が真実になれるものを、まろやかに完成、「円成」して下さって、光明無量・寿命無量のお悟りを開いて下さり、それを注ぎこんでお浄土というものを作って下さった。しかしお浄土で待っていても、私達が一向に来ないから、その徳を全部南無阿弥陀仏の中に入れこんで、迷いの私達の心の中にぶちこんで、廻向し「廻施」して下さる。「機無・円成・回施」の論理が、原理といいますか、これがみ教えの中に働いていて下さるのです。

浄土真宗華光会 法話(機関紙バックナンバー) 化生の南無阿弥陀仏より
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/kekousi/houwa/54-4houwa.htm


第二十願の「聞我名号係念我国」という聞は、名号を聞くといっても、なお名号の真実の義に達しない不如実の聞である。これに対して本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とある聞は、所聞の名号の其実の義に達した如実の聞である。
その名号の義とは、信文類に本願成就丈の聞其名号を釈して「仏願の生起本未を聞いて」等と言われる「仏願の生起本末」がこれである。「仏願の生起」とは、本願は誰のために起こされたかということで、それは迷いの衆生のためであり、この衆生の性得すなわち機実をいえば、無有出雛之縁である。「本」とは困本の義で法蔵困位の願行であり、「末」とは果末の義で本願成就の果である。よって、仏願の生起本末とは、無有出難の機のために、大悲の誓願を起こして永劫に修行せられ、遂に十劫の古に正覚を成就して常に衆生を招喚したもうのであって、これが名号の義である

坊さんの小箱 宗義問答・旧論題 1.聞信義相より
http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/1kgaku.html


然経言聞者 衆生聞仏願 生起本末 無有疑心 是曰聞者
 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり

▼意訳(「現代語版」より)
無量寿経に『聞』と説かれているのは、私たち衆生が、仏願の生起本末を聞いて疑いのこころがないのを聞というのでる)。

と示されています。
註:〈生起本末とは、仏願の起こり来ったおいわれ(由来)であり、その願が成就されている事実、結果をいう。〉
 罪悪深重の凡夫があるが故に本願が生まれたのであり、凡夫の、衆生の苦悩に対して発せられた如来の誓願であり、罪悪深重の凡夫を憐れんで救わんが為に発願されその結果(本末)、成就されている第十八の誓願があるといえる。


 元来、他力の信心はその体は名号法そのものである。名号の内容は「信巻」における成就文の釈のごとく「仏願の生起本末」である。この仏願の「生起」を聞いたのが機の深信の内容であり、また仏願の「本末」を聞いたのが法の深信の内容といわれる。この仏願の生起本末の内容を自らの側の仕事とするのが信罪福心の自力心である。それ故、一深心を二種に開かれた理由はこの信罪福心を否定せんがためといわれる。即ち仏願の生起を聞くことによって信罪の心が否定され、仏願の本末を聞ことによって信福の自力心が否定されるのである。

『現代の教学問題』  二種深信について(48頁・稲城選恵師)


聞法ノート 第一集 14 第十八願 念仏往生願
浄土真宗やっとかめ通信 (東海教区仏教青年連盟)
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/mizutani114.html

 これらから分かるのは、以下の違いであります。

浄土真宗
・仏願の生起(罪悪深重の凡夫があるが故にご本願が生まれた)
・本(法蔵困位の願行)
・末(十劫の古に正覚を成就し、南無阿弥陀仏を成就なされ、衆生に回施しようとなされている)


親鸞会
・仏願の生起を本から末にかけて聞く=自分の姿を聞く


 もう一つ、親鸞会の聴聞に対する誤解がありますので、次回例示いたします。

阿弥陀仏の本願を聞信するとはいかなることか?(2)

2009.09.23 (Wed)

 先回の続きです。親鸞会の「現代に生きる仏説」にある「聞法の決勝点」について以下のような指摘がありました

細かいことはいいとしまして、この文章には大変な間違いがあります。
それは、
「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
です。

後の文章で、
本願のお目当てを「生起」という。
とありますので、これをあてはめますと、
「本願のお目当て」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
となります。
これでは「法」が全く抜けてしまっています。
本来、この親鸞聖人のお言葉は、本願成就文(第18願成就文)の「聞其名号」の説明であり、「聞とは、南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ということなのに、いつの間にか「自分の相を聞く」とすり替わっているのです。

もし、多くの人がこのように理解しているのならば、どれだけきいても聞信するということはありません。

仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し

仏願の「生起」と、仏願の「本」「末」を聞いて全く疑心が無くなった
ということです。
「生起」と「本末」と「疑心有ることなし」の簡単な意味は以下の通りです。
「仏願の生起」-機ー罪悪生死の凡夫であり、出離の縁有ることない私
「仏願の本末」-法ー法蔵菩薩の五兆の願行と、それによって成就した名号のお力
「疑心有ることなし」-無疑の一心ー信楽ー信心

大事なところです。

21世紀の浄土真宗を考える会 「現代に生きる仏説」を読んで
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-91.html



「仏願の生起・本末を聞きて」とは、「仏願の生起」と「仏願の本末」を聞きてという意味です。

「仏願の生起」を本から末にかけて聞くということではありません。

上記のお言葉を簡単に解釈します、以下のようになります。

「阿弥陀仏が自分の力で生死を離れることができないものを救うために本願を建てられ、五劫思惟の願と、兆載永劫の行によって南無阿弥陀仏の名号を完成なされた。その名号を阿弥陀仏から受け取る一つで、疑心有ること無しの真実信心を獲得したことを、「聞」というのだ」

「聞其名号」の「聞」についての説明ですから、仏法を聞くと言うことは何を聞くのかということについての親鸞聖人の解説です。

コメントの文面では、「仏法を聞く=私の姿を聞く」ということになります。どれだけ私の姿を聞かされても、それで救われるのではありません。

仮に自分の姿が知らされて救われるというのならば、自分にもともと往生できるものがあるということになります。

自分の姿に疑心有ることなしとなるのが信心ならば、二種深信とはいえません。(二種深信とは、機の深信、法の深信のこと)

あくまでも法を聞くのが聴聞です。南無阿弥陀仏の法を聞くのが聴聞です。

安心問答 聴聞とは、法を聞くことです(全くわからないんですがさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090826/1251287790


 つまり、
阿弥陀仏の本願を聞く=自分の姿を聞く
とだけ解釈して、会員に徹底していたということなのです。

 これらの突込みを受けて、親鸞会はこのように内容を書き改めました。

「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。

 ↓

「仏願の生起・本末」を聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。



 ネット上のことならすぐに削除、修正すれば誤魔化すことは出来ますが、これは顕正新聞で活字になっていますからね。後々説明が大変だったと思いますし、多分スルーしているのかな?というようにも思えます。

 では、いかなることをいかなるように聞くのを「聞」というのか、これを次回、確認しましょう。

«  | HOME |  »

プロフィール

カウフマン

Author:カウフマン
かつて浄土真宗親鸞会の学生部、青年部、支部にて幹部として活動しておりました。現役時代から会の教義について疑問を抱きつつ活動しておりましたが、最終的には「浄土真宗親鸞会の教義は浄土真宗ではない」と袂を分かちました。退会後、元会員の方々のブログでお世話になり、法に接していくにつれ、次第にそのMCも晴れ、今日までのS会での悪疑を恥づるに余念がありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

連絡は
adolf_kauffman0521@livedoor.com
まで!

最新トラックバック

FC2カウンター

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。